性暴力被害に押し付けられる「かわいそうな人」か「聖人」というドレスコード。私は好きな服を着て生きていきたい
前回は誰もが持つ「枠」について、セカンドレイプや私の経験を通じてお話しました。今回は実際に活動をしていくなかで感じた「枠」について考えていきます。
性被害に遭った影響で体調や精神状態に波はあったものの、私は2009年からセミナーやイベントを運営したり、経験を発信したり、被害に遭った方の話を聞いたりと、性暴力に関わる活動を続けてきました。そのなかでたくさんの“両極端な物の見方や考え方”に出会い、葛藤してきました。特にそれを強く感じた3つの場面を挙げていきます。
まずひとつは、性の情報についてです。性の話は性暴力・ジェンダーのような性の問題や妊娠出産といった生殖の話か、エロの文脈の娯楽コンテンツとしての性の話か、このどちらかの文脈で語られます。
学校での性教育は生殖や出産についてが中心で、性行為についてはAVや漫画などの娯楽コンテンツから学ぶしかない……ここにも両極端な状況があります。エロの情報やネタはあふれていますが、娯楽コンテンツはあくまで娯楽として楽しむものであり、正しい知識でも教科書でもありません。
「性暴力はダメ」では伝わらない
近頃ジャンプの性表現が話題になり、「“普通は”フィクションと現実の区別はつく」という意見が聞かれました。本当にそうでしょうか? 性に関する話題はネタとして以外に、身近に触れる機会も語ることもなかなかありません。そんななかでは何が性暴力で、何がそうではないのかがわかりません。性や性のコミュニケーションについて共通認識を持つ機会が少ないことから、知識が人によってばらつきすぎているので、何をしてはいけないのかというラインを見極めることが困難なのです。
結果、人と関わるうえで大事な、“互いを尊重する”というコミュニケーションが、セックスになると適応されず、「嫌がっているように見えても本当は喜んでいる」といったようなセックスに関する“暗黙のルール”ができている状態です。
私が関わる性暴力に関するイベントに来てくれたり興味を持ってくれたりする方のほとんどはとても真面目で、真剣に考えてくれました。しかしそんな状態だからこそ、「性暴力をしてはいけない」というだけでは真剣に考えてくれている人にしか伝わりにくいという現状があります。
性暴力と聞くと身構えて距離を置いてしまう人、自分には関係ないと考えている人が多くいます。自身や身近な人の身に振りかかり深刻になってから初めて、自分ごとになります。それは前回でもお話したとおり、それは前回でもお話したとおり、性暴力に遭う人は“普通”ではないと思っているからです。こうしてセックスについてや身近な性についてコミュニケーションを取ったり、正しい知識をつける機会が持てない現状が性暴力を招くことになるのではないかと思うようになりました。
詩織さんが求められたドレスコード
ふたつめは、被害者像についてです。私のように被害当事者であるとオープンにしたうえで人前に出ると、「傷ついて弱くてかわいそうな人」か「乗り越え、悟った強い聖人」か、どちらかのイメージを求められます。
フリージャーナリストの詩織さんが今年5月に記者会見を開いて準強姦の被害体験を告発したとき、その振る舞いや服装が話題になりました。それに対し、評論家の荻上チキさんが「被害者のドレスコードを求められる」と指摘されていましたが、これはまさに私自身がずっと抱えてきた葛藤でもあります。
“被害者らしいイメージ”というドレスコード(枠)ーーここから少しでも外れてしまえば、被害に遭ったことを認められない、ということを私も経験してきました。ネット上では「人前に出て話せるなら被害なんてなかったのでは」と、真偽を検証するという大義名分のもと、私が“イメージからいかに外れているのか”が議論されました。これはセカンドレイプです。
まず話を聞いてもらわないと伝えることもできないので、求められるコードに従い最低限は「被害者らしくしなければ」と思う気持ちと、「被害者のイメージとは違っても自分のままを伝えたい」という気持ちでいつも悩み、引き裂かれていました。
実際には、被害を受けた後に肌を露出をするのが怖くなってスカートを履けなくなる方や男性と接することに恐怖を感じる方がいて、そういった方々がどれだけ苦しむのかを伝え、性暴力の与える影響の大きさを発信していく必要がある、と思っています。
その反面、私個人は回復途中で発信をはじめたことで情報を多く得られる立場にあったり、もともと学生団体やボランティアなどさまざまな活動をしていたりといった、やや特殊な経歴のおかげで、環境には大いに恵まれました。信頼できる男性も周囲に多かったのです。そのため回復が早く、男性の友人も多く、恋愛やセックスもできていました。浴びせられた悪意と同じくらいには人の優しさや美しさに触れることができ、「人を好きでいるのを諦めたくない」と思い、被害経験をバネにして前向きに動けていました。
スカートを履いていいのか葛藤する
しかし発信する当事者に求められるのは、自身の経験を語ることです。それが一番説得力があるからです。そのなかで、回復が早くイメージに合わない自分のパーソナリティと、多くの被害者が被害を受けたあとに見られる傾向とを、どう分けて伝えればいいのかと葛藤していました。
また性暴力の被害当事者として、メディアに出る機会があるときは「スカートを履きたい」「でも短すぎないものを選ばないと、そこばかり指摘されてしまう」「服装の批判ばかりになったら肝心の話が届かない……」と、ジレンマを抱えながら自分の気持ちとイメージの折り合いを付けて服を選んできました。
本来は服装は関係ないと伝えたいのに、その枠を意識しながらバランスを取ろうとする自分の矛盾に罪悪感を感じていました。
そして私は実は“男性向けオタク”で、アニメや漫画、そしてシナリオのよいエロゲ(18禁美少女ゲーム)が好きという一面があり、それについても被害者のドレスコードに合わないと長く葛藤した経緯があるのですが、それに関しては回を改めて詳しくお話します。
被害の経験はあくまでその人の一部であり、さまざまな段階があります。私と同じように被害者のドレスコードと異なる経緯をたどった方も多くいるはずです。それなら多様なケースの一例として、自分のパーソナリティを隠したり抑圧したりしたくない。でもそう思う一方、「私が前に出たせいで、ほかの被害者が誤解されないようにしないと」と“代表者にふさわしい聖人”や“正しい被害者像”のドレスを前に揺れていました。
問題がごちゃ混ぜにされる弊害
「被害者のイメージを押し付けられたくないなら、被害に遭ったことを隠せばいい」
「文句をいわれたくないなら、スカートを履くのをやめたらいい」
そんなことも言われます。でもこれは、本来は別個にある問題の論点を混ぜて、自己責任論に収めているだけです。私はそれに抵抗していきたい。問題を“切り分け”て考えていきたい。wezzyでは、前回お伝えした“知らないことによる枠”の話とともに、“問題の切り分け”もひとつのテーマとしていきたいと思います。枠に収めてしまう理由のひとつは、この“切り分け”ができていないことにあるからです。
たとえば「文句をいわれたくないなら、スカートを履くのをやめたらいい」というのは「“本当に被害に遭ったのならスカートを履けなくなるはず”というイメージを持っている人が多い以上、被害者と認められたいならそれを受け入れるべきだ」ということになります。「露出していると性犯罪に遭いやすくなる」という誤解、そして「犯罪に遭うのは被害者が自衛していないことが原因だ」「傷ついているなら、被害に遭いやすい格好をできるわけがない」という、“問題をすべてごちゃ混ぜにした主張”なのです。
これは、たとえ誤ったイメージでも多くの人が持っているならそれに合わせるのが正しいという主張であり、その情報が正しいかどうかより、多くの人に受け入れられるかどうかが優先されているので非常に危険です。
そして性犯罪が起きる原因は加害者の認知が歪んでいるからであって、女性がスカートを履いているから起きるのではありません。たとえどんなに自衛をしても、加害者の認知が歪んでいれば想定外のことが起きます。
悪いのは「性犯罪」という加害行為です。女性が肌を出さずに“自衛”をしていないということが“加害を誘発する”原因として置き換えられ、それによって自己責任論がまかり通るようになるのです。こうして“問題の切り分け”ができていないことこそが、性犯罪に限らずさまざまな生きづらさの原因となっていると私は思います。
また自衛は権利であって義務ではありません。そして“被害に遭って傷ついて露出ができなくなる人がいる”ことは、“被害に遭った全ての人が露出ができなくなる”ことではありません。それを“露出をしている人が傷ついていない”や“被害に遭ってもいいと思っている”とすることは論理の飛躍です。そしてこの発言は、被害者に“行動の制限”を強要することになり、自由を奪い、結果、回復を阻害することになるのです。
服は#ハッシュタグに似ている
このようなことから私は、
「私はスカートが好きだけど、性被害に遭うのは嫌」
「着たい服を着て楽しく生きていきたい」
「被害者として縮こまるのではなく、自分で選択して生きていいい。まずは自分がそう発信することで、押し付けられたドレスを前に悩んでいる人をエンパワメントしていきたい」
そう考えるようになりました。
服は、SNSなどで使われる“# ハッシュタグ”と似ています。何を着るかは、自分で選択していいはず。被害者だろうとオタクだろうと、どんな要素を前に出すかは自分で選んでいいはず。気分で選んでいいし、相手や場面や目的によって変えてもいいはず。自分でアレンジしても作ってもいい。そして、どんな服があるのか知らなければそれについての情報を得ることはもちろん、着ることを選択することもできません。
本来ドレスコードは、その場を心地よく過ごすための心配りであるはずです。そのドレスコードができた前提が変化したり、そこに間違った認識、差別があるのならアップデートする必要があります。あくまで”服装”や“その場にいること”を選択できる状況にあるときに使われるべきもので、日常的に押し付けられるものではありません。また“着たい服を着ている”ことで別の原因から起きる不利益を肯定されるものでもないはずです。
こうして私は、性被害やセカンドレイプから始まる息苦しさは、被害自体や性の問題だけではなく「ドレスコードを押し付けられる」という、ごく身近なことからもきていると思うに至りました。私は「被害者のドレスコード」を求められましたが、たとえば、「自分を犠牲にしてでも家族に尽くさないと母親として失格」という「母親のドレスコード」のように、誰しも求められるドレスコードがあるのではないでしょうか。
身近な「ねばならない」に気づく
社会問題のなかにはさまざまな要素が絡み合っており、それぞれが独立しながらも関連しているものが多くあります。だからこそ、まずは絡んだ糸をほぐすようにして、問題を切り分ける必要があります。そのうえで違う分野と掛け合わせることで、興味を持つきっかけを作ったり、ひとつの分野だけでは解決できないことに、さまざまな観点が生まれるようにしたい。化学反応を起こしたい。
なにより私は私のままでいることで抑圧から自由になりたい。私にはほかにもいろんなパーソナリティがある。だったら、同じように多様な生き方をしている人がいることを伝えるために、知る機会や対話する機会を作る必要がある。
そう考えてこれまでさまざまな活動を続けてきました。今後はこのwezzyという場で発信することで、もっと多くの方に届いてほしいと思っています。
wezzyでは、自分の経験や身近な話題から社会問題につながるようなトピックを取り扱っていきます。生きづらさや社会問題というと少し遠いものに思われるかもしれませんが、なんとなく息苦しく感じてモヤッとする「こうあらねばならない」「こういうものだ」ということがみなさんの周りにもありませんか? そこから少し自由になるためにはどうしたらよいのか、一緒に考えていきましょう。