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センスプが報じた新たなゲス不倫の裏で…小倉優子が「夫の不倫」と同じくらいなかったことにしたい黒歴史

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『小倉優子のはじめてママdays』(主婦の友社)

 8月3日発売の「週刊文春」に夫であるカリスマ美容師の菊池勲氏が、自分と同じ事務所のアイドル馬越幸子との不倫が報じられ、離婚危機となっている小倉優子。現在はママタレとしてブレイク中なだけに、烈火のごとく怒り狂ったという。

「小倉は自分のマネージャーに、『私のママタレキャリアがダメになるから、夫がすべて悪いことにして懲らしめてほしい』と指示。さらには、『離婚したらママタレで生きていけないのはわかってるでしょ!』とまくしたてていたそうです」(芸能記者)

 小倉はこれまで、グラビアアイドル→こりん星キャラ→ママタレと3度のブレイクを果たしている。その間も焼肉店経営や株取引、さらにはゴルフを始めるなど、芸能界でのポジションをつかむためにしたたかに計算を働かせていた。

 実はそんな彼女には、夫の不倫と同じくらいなかったことにしたい黒歴史時代が存在したことはあまり知られていない。それが「早口」と「ございます」キャラだ。アイドル誌の編集者が言う。

「売れる前に出演した『THE 夜もヒッパレ』(日本テレビ系)では、今でいう鈴木奈々のような超ハイテンションでキャーキャーと早口で喋っていました。さらに、当時の雑誌のインタビューでは明るいキャラがバラエティ向きだと言われ、『やや、そんなことないでございますよ。今年はドラマにも出たいですもん。優子、涙を流すのが得意でございますから』と、なぜかほぼ必ず語尾に『ございます』をつけています。この迷走の原因は、おそらくまだ芸風を模索中だったのでしょう」

 誰よりも「キャラ」や「武器」に苦心してきた小倉だからこそ、せっかく掴んだ「ママタレ」「カリスマ主婦」の座の重みを知っているはず。そのことをひっくるめて、夫の不倫を許すのか、否か……。

【小田嶋隆】アルコール依存症の男とその女、そして彼らの”練馬区”

東京都23区――。この言葉を聞いた時、ある人はただの日常を、またある人は一種の羨望を感じるかもしれない。北区赤羽出身者はどうだろう? 稀代のコラムニストが送る、お後がよろしくない(かもしれない)、23区の小噺。

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(絵/ジダオ)

 西武池袋線の石神井公園駅から住宅街を北に向かって10分ほど歩いたあたりに、かつて、その世界では名の知れたペットショップがあった。店内で放し飼いにされているケヅメリクガメと一緒に撮った写真を、彼はいまでも机の前の壁に貼り付けている。ペットショップとカメが、いまどうしているのかはよくわからない。あのあたりには、もう20年近く足を踏み入れていない。通過することさえ避けている。自分にはそうするだけの理由があると、山口進次郎は思っている。

 彼がそのペットショプにほど近いところにあるマンションを最も頻繁に訪れたのは、1990年前後のことだ。当時、進次郎はとある予備校の事務所のアルバイトから正社員の身分に引き上げられたばかりのトウの立った新入社員だった。

「進ちゃん?」

 電話をかけてきたのは彩乃だ。背後のノイズで、公衆電話からかけてきていることがわかる。部屋から電話をかけられないのは、例によって、何らかのトラブルが起こっているからなのだろう。

「……悪いけど、いまから来れる?」

 進次郎は黙って次の言葉を待った。返事に窮していたというよりは、伝えなければならない言葉がはっきりしすぎていて、その言葉をはっきりと口に出す決断に、時間を要したからだ。が、

「もうたくさんだ」

 と言う代わりに

「これからそっちに向かう」

 と答えて、結局、彼は、出かける支度をはじめた。いつも同じだ。こんなふうに、真夜中の電話で呼び出されるのは何度目だろう。少なめに数えても、10回以下ではないはずだ。

 彩乃は進次郎から見て、親友の妻ということになる。そうなる前のしばらくの間、彼女は進次郎のガールフレンドの一人だった。彼女が祥一のどこに惹かれたのかはわからない。あるいは、惹かれたとか心を奪われたとか、そういう浮わついた話ではなかったのかもしれない。あるタイプの女性は、沼の縁の斜面に足をとられるみたいにして、自らの運命の深みに導かれて行く。彩乃にとって、祥一はそういう抵抗しがたい深淵だったのだろう。

 祥一と彩乃が結婚してから一年ほどたった頃、進次郎は、引越祝いの名目で、二人にホルスフィールドリクガメの幼体をプレゼントしたことがある。

 ホルスフィールドリクガメは、カスピ海東岸からアフガニスタン周辺の乾燥地帯に生息している陸棲のカメで、ロシアリクガメとも呼ばれる。性質はおとなしく、飼育はそんなにむずかしくない。ミドリガメに代表される水棲のカメと違って、水場を必要としないため、部屋が臭くなることもない。散歩も要らない。エサは葉物の野菜でいい。

 値段はヒーター、サーモスタット、専用のライト(紫外線ライトとバスキングライト)、水槽、床材など、ひと通りの飼育セットをひっくるめて6万円ほどだった。

 プレゼントに生き物を選んだのは、深刻化しはじめていた祥一の飲酒癖をソフトランディングさせるためには、適度に手間のかかるペットを持ち込むことが効果的かもしれないと考えたからだった。

 祥一と彩乃は、結婚して一緒に暮らし始めるとすぐに共同生活に行き詰まった。どうしてなのかはわからない。が、とにかく、彼らは、週末ごとに進次郎を呼び出すようになり、次第に、二日、三日と滞在を求めるようになった。2人きりで居ると気詰まりだからというのが、彼らが進次郎の帰宅を阻もうとする時の言い分だった。たしかに、婚約時代から、祥一と彩乃は、進次郎を交えた3人のセットでいる時の方が自然に振る舞うことのできる、奇妙な関係のカップルだった。

 とはいえ、進次郎の仕事が忙しくなると、そうそう頻繁に彼らの家に泊まってもいられなくなる。それに、3人の共同生活は、自然なようでいて、やはり、どこか芝居じみていた。

 進次郎は、泥酔一歩手前の祥一に
「赤ん坊でもできれば少しは違うんじゃないか?」

 と言ってみたことがある。

 進次郎は、テーブルに突っ伏したまま、顔を上げずに、はっきりとした声で答えた。

「そいつはコウノトリが運んでくるのか?」

 なるほど。

 2人の間には、かなり長い間肉体的な交渉が無いということなのだろう。どちらかが拒否しているのか、あるいは祥一が酒のせいでその能力を失っているのかもしれない。別の考えを採用すれば、能力を失っていることが、彼の連続飲酒発作の引き金になっているという見方もできる。

 と、ここまでのところで、進次郎は考るのをやめた。彼らを問い詰めることもしなかった。知りたくなかったからではない。知ってしまった場合に、その事実に対処する自信がなかったからだ。

 ただ、赤ん坊の代わりに、カメでも飼うとかして、なんとか変化をつけないと、この二人はこのまま自滅してしまう、と、そう考えて、進次郎は、時々覗いていた近所のペットショップに足を運んだのだ。

「ほら」

 カメを披露する時、彼は言った。

「おまえたちの新しい家族だ」

 二人は喜んだようだった。

「名前は?」

「自分でつけろよ」

「じゃあ、進ちゃんにしようかしら?」

「かまわないよ。オレも、これからは、そうそうここに来れなくなるからな」

「どうしてさ」

「正社員になったからだよ」

「あら、おめでとう」

「ほんとか?」

「オレはいつも出遅れてるノロマだけど、ひとつ教えといてやる。最後にゴールのテープを切るのは、休まずに歩くカメだぞ」

「ははは。素晴らしくおまえらしい意見だな」

「とにかく、これからはこのカメをオレだと思って仲良く暮らしてくれ。たのむ」

 しかし、彼らがなんとか無事に暮らしていたのはほんの三ヵ月ほどで、祥一が体調不良を理由に会社を休職するようになると、カメの魔法は消えて、事態は悪化の一途を辿った。

 以来、進次郎は、近所の公園やマンションの廊下で泥酔して動けなくなっている祥一を拾い上げるために、何度となく出動していた。この日は、前回から数えて20日ぶりの出動だった。

 部屋に着くと、祥一は泥酔したまま眠っている。

 倒れているのが部屋の中だというのは、まだしも上等ななりゆきだ。とにかく、この厄介な男をベッドまで運ぶ仕事は、彩乃にはできない。オレがなんとかしなければならない。

「おい」

 声をかけても反応がない。

 うつ伏せの状態で倒れている肩をつかんで、裏返しにすると、吐瀉物がフローリングの床の上に広がっている。そんなにひどい匂いではない。ロクにものを食べていないからだろう。仰向けになった祥一の脇の下に両腕を差し入れて、そのまま後ろに引きずる。祥一のカラダは驚くほど軽い。たぶん50キロを切っている。アルコール依存症患者に太った人間はいない。体温の高い死体が無いのと同じことだ。

 ベッドまで運んで戻ってくると、彩乃は既に床の掃除をあらかた終えている。

「ごめんね」

 進次郎は直接返事をせず、壁に向かって話しかけるみたいな口調で言う。

「オレはこれで帰る。あいつは医者に連れて行った方が良い。目を覚ましたら、二度とオレに電話するなと伝えてくれ」

 進次郎はしばらく前から祥一の名前を発音することに忌避感を覚えるようになっている。で、「あいつ」と呼んだり「あんたの亭主」と呼んだり、「あの酔っぱらい」という言い方をすることで、名前を口にせずに済ませている。

「……」

 彩乃は黙っている。このことも進次郎を苛立たせる。彼がよく知っていた頃の彩乃は、黙って困惑しているような女ではなかった。どちらかといえば、困っている人間を問い詰めにかかるような、はっきりした性格の女だった。それが、いまや自分の意図さえ説明できない。

「ゲロの掃除が手際良くなったからって、それで事態が改善するわけじゃないぞ」

 進次郎は、腹を立てているのではない。むしろ責任を感じている。あいつがあんなふうになったのは、もしかしたらオレのせいなのかもしれないと、時々そんなふうに考える。それが考え違いであることはわかっている。アルコール依存症患者の周囲にいる人間は、イラついたりうんざりしたり怒ったりすることに、じきに疲れる。そして、感情を浪費することに疲労した人間は、いつしか責任を感じるようになるものなのだ。彩乃が陥っている事態はそれだ。彩乃が責任を感じる必要はないということを、進次郎は何度も伝えた。その理由も詳しく説明した。アルコホリックの家族が自責の念を抱くことは何も改善しない。むしろ事態を悪化させるだけなのだ、と。しかし、彩乃は責任の物語から外に出ることができない。進次郎自身、うっかりすると自責の念に苦しめられている。もしかして、自責は怒りや失望よりも対処することの容易な感情で、オレたちはその中に逃げこんでいるのかもしれない。

「ごめんね」

 と彩乃が何度目かの同じセリフを繰り返す。

「あやまるのはよせよ。君たちはいつもあやまってばかりいる。今何時だと尋ねれば、ごめんねと答える。いい天気だと話しかけても、許してくれと言う。オレはそういう反応にうんざりしている。あやまることと、責任を感じることと、考えこむことをやめて、とにかく今夜はこのまま眠って、明日の朝一番に病院に電話をしてみてくれ。頼む」

「……ごめんね」

「帰る」

 終電は既に走り去っている。練馬の裏道をタクシーが流している時間でもない。アタマを冷やす意味でも、家まで歩いた方が良い。そう判断して、進次郎は12月の夜道を南に向かって歩いた。

「待って」

 振り返ると、彩乃がすぐそばまで追いついてきている。

「私、あの部屋にあの人と2人きりじゃいられない」

「……」

「お願いだからせめて始発の時間まで居て」

「無理だよ。オレだってあんたらと一緒にあの部屋にいるのはごめんだ。もううんざりなんだ」

「……でも」

「悪いけど帰るよ。オレには明日があるんだ。あんたらには無いんだろうけど」

 最後の一言は余計だった。彼らの現状を考えれば残酷に過ぎた。そう思ったのは、彩乃が泣いていることに気づいたからだった。これまで、どんなにひどいことがあっても、彼女は無表情で試練に耐えていた。その、見ようによっては冷酷にも見える顔で、彼女は、祥一が引き起こす酒の上のトラブルをひとつずつやり過ごして来たのだ。

「進ちゃんがどうしても帰るんなら、私が進ちゃんの家に行く」

「バカなこと言うなよ」

 おそらく男女の間で起こる間違いのうちのおよそ半分は、愛情とは無関係ななりゆきが誘発するものだ。少なくともオレの場合はそうだ、と、進次郎は考える。オレは、惚れた女を口説いたことがない。好きな女を家に招いたこともない。いつも間違った女とたいして望んでもいない関係を築いて、自分でそのことにびっくりしている。まるで自分のゲロに驚いて目覚める酔っぱらいみたいに。

 祥一が川越街道の路上でトレーラーに轢かれて死んだという知らせがはいったのは、2週間後の、大晦日の明け方だった。彼は、真夜中の国道の車線をまたぐ位置で眠っていて、そのまま通りかかった11トントラックに轢かれたのだという。

 祥一が、彩乃と自分の間に起こったことを知っていたのかどうか、進次郎は、そのことを彩乃に尋ねることができなかった。

 告別式の日、喪主をつとめたのは祥一の父親で、彩乃は終始無言のまま、塗り固めたような無表情で親族席の一角に座っていた。

 葬儀が済んで、遺品の整理や住んでいたマンションの立ち退きがひと通り終わった時、残ったカメは、責任上、進次郎が引き取った。

 名前は、彼らが飼っていた時のまま、進次郎で通すことにした。進次郎が進次郎を飼うというのも奇妙な話だが、祥一と呼ぶのはなおのことキツいし、ほかの名前もピンと来なかったからだ。

 ギリシャリクガメの進次郎は、二年ほど彼らに飼われていたことになる。8センチだった甲長は13センチまで成長している。甲羅の色艶も良い。大切に飼われていたということだ。

 カメを引き取って二ヵ月ほどが経過した頃、彩乃から一行だけの短い手紙が届いた。

「私たちのことは忘れてほしい」
 というのがその文面だった。

 私たちというのが、彼女と祥一のことを指すのか、彼女と進次郎の間にあった出来事を意味しているのか、進次郎には判断がつかなかった。

 カメは今年の4月に死んだ。

 思いがけないほど素直に涙が出た。

 祥一が死んだ時、彩乃と自分が泣かなかったのは、自分たち自身が半ば死んでいたからなのだろう。そう考えて、進次郎は涙を拭いた。

 彩乃には、あれ以来会っていない。忘れていない以上、会うわけにはいかないからだ。

小田嶋隆(おだじま・たかし)
1956年、東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。営業マンを経てテクニカルライターに。コラムニストとして30年、今でも多数の媒体に寄稿している。近著に『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)、『もっと地雷を踏む勇気~わが炎上の日々』(技術評論社)など。

「週刊文春」「週刊新潮」が同時スクープしたNHK女子アナ愛人クラブ報道の裏側

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NHK室蘭放送局HPより

「週刊文春」、「週刊新潮」がスクープしたNHK室蘭放送局の現役女子アナが愛人クラブに登録していた騒動だが、どうも様子がおかしい。NHKというブランドはあるものの、マイナー地方局の名もなき女子アナについて、ライバル誌が同時に動くなど不可解な点が少なくない。スクープの裏側に何があったのか。

「両誌ともに名前は伏せていますが、当該の女子アナは室蘭放送局の山崎友里江アナで、現在ホームページは閉鎖されています。情報番組で道内情報を伝えるレポーターとして活躍し、ネット上では『期待の地方アナ』として取り上げられることはありましたが、あくまで知る人ぞ知る存在でした」(NHK関係者)

 とはいえ、現役女子アナが愛人クラブに登録していた事実には驚かされるばかり。いったい誰がリークをしたのか。

「愛人クラブに登録していた会員からマスコミ各社に売り込みがあったようです。山崎アナと実際に会ったものの、1回数十万円と吹っかけられたため交渉決裂。また高飛車な態度だったこともあり、腹いせにリークしたということのようです。山崎アナも愛人クラブで自分を高く売り込むためか、『地方で女子アナをやっている』と口走ってしまい、それが命取りになってしまったようだ。「女子アナ」という肩書きはクラブにとっては常連に対して恰好の売り文句。興味を示した会員も多かったそうです」(週刊誌記者)

 リークにマスコミ各社は一斉に動いたという。

「『週刊文春』、『週刊新潮』の他に写真週刊誌も取材を進めていたようです。『新潮』の動きを察知した文春は、発売日前にネットにニュースを配信し先手を打ちました。後手に回った『新潮』は負けじと室蘭という支局名まで出し、山崎アナの親にも直撃しています。山崎アナ本人はNHKへの不満を語っていますが、さすがに支局内に擁護する者はいないようです」(前出・週刊誌記者)

 女子アナとして脇が甘かったと言わざるをえないようだ。

【磯部涼/川崎】スケボーが創り出すもうひとつの川崎

日本有数の工業都市・川崎はさまざまな顔を持っている。ギラつく繁華街、多文化コミュニティ、ラップ・シーン――。俊鋭の音楽ライター・磯部涼が、その地の知られざる風景をレポートし、ひいては現代ニッポンのダークサイドとその中の光を描出するルポルタージュ。

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深夜、川崎駅近くの某所でヴィデオ撮影を行う大富たち。

 最終電車が去ると、川崎駅周辺にはもうひとつの世界が立ち上がる。ついさっきまで帰宅者でごった返していた東口は静まり返り、地下道の入口は路上生活者たちのベッドルームと化す。隣接したショッピング・センターのショーウインドウの前ではダンサーたちが練習に励み、テラスへと続く階段では外国人市民が座り込んで缶ビールをあおる。彼らは、まるで、昼間の世界では使い道が決めつけられている場所を、夜の暗闇に紛れて思い思いにリノベートしているかのようだった。

 しかし、その様子を疎ましく思っている人間もいるようで、弁当入りのビニール袋をぶら下げた中年男性は不愉快そうに一瞥をくれながら階段を上っていったが、彼はテラスに出たところでふと足を止めた。コォォォォォン。背後からアスファルトを削るような音が聞こえてくる。男性が訝しげに振り返ると、脇をものすごいスピードで、スケートボードに乗った若者が通り過ぎた。唖然としていると、続けさまにもう1台。今度はヴィデオ・カメラを片手に持っている。先頭の若者は巨大な縁石をオーリーでもって軽々と飛び越え、そして、次に見えた縁石の端に飛び乗って、デッキでスライドしようと試みたところでバランスを崩し、派手に転がった。「ああ、ちくしょう!」。若者が痛みと悔しさをこらえながら、真っ暗な空を仰いでいると、もうひとりが滑り込んでくる。「惜しい惜しい! もう1回、やってみよう」。そこは、人の目を盗んで真夜中にだけ姿を現す、幻のスケートパークだ。

川崎を代表するラッパーもいたスケートボード・シーンの歴史

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ゴールドフィッシュは堀之内のちょうど入り口に店を構えている。

 川崎駅に程近い堀之内は関東を代表する性風俗街のひとつだが、昼過ぎに足を運ぶと、そこにはなんとものどかな雰囲気が漂う。一角に店を構えるスケート・ショップ〈ゴールドフィッシュ〉の前では、店主の大富寛が日差しを浴びながら古ぼけた自転車をいじっていた。横には持ち主の老人。「はい、直りましたよ」「ありがとうね。お代は?」「簡単だったから、今日はいいですよ。また、空気入れにでも来てくださいね」。お礼を言った老人は自転車にまたがり、ヨロヨロしながら去って行った。

「ウチは近所の人に自転車の修理屋さんだと思われてますからね」。堀之内のイメージとはギャップがある、カラフルなスケートボードやピストバイクが並べられた洒落た店内で、大富は笑う。この店に集うスケーターたちに、そして、地元の人々に“コボ”の愛称で親しまれている彼の、そのリラックスした姿は、深夜、スケート・ヴィデオの制作のために格闘していたときとは真逆のようだったが、表情からは若いスケーターを励ます際と同じ優しさがにじみ出ていた。

 大富は78年、川崎駅西口側の南幸町で生まれた。団体行動が苦手な少年がスケートボードを始めたのは中学1年生のとき。やがて、駅前のショッピング・センターに入っていたスポーツ・ショップに通ううちに、彼はこの街にもうひとつの世界があることを知る。「だんだん川崎のスケート・シーンを把握していったんですけど、特に『この人たち、ヤバい!』と思ったクルーがあって」。それは、臨海部を拠点としていた〈344(スリー・フォーティフォー)〉だ。「〈344〉は、年上の人たちのクルーで、当時、すでに川崎で名を馳せてたし、僕なんかは格が違いすぎてしゃべりかけられなかった。中でもハル君(関口晴弘)はヒーロー。毎日、彼が滑ってるところをじっと観て、帰った後にひたすら練習するっていう。早くうまくなってあの人たちの輪の中に入りたい、その一心でしたね」。そんな〈344〉には“事務所”と呼ばれる溜まり場があった。「スケボーの板とかスニーカーとかがいっぱい置いてあって、子どもの欲しいものが何でも揃ってる感じ。次第に僕も入れてもらえるようになったんですけど、実はそこはハル君の実家〈スーパーみよしや〉の事務所で、〈344〉は“みよし”から取ったと知ったときはガクッとなりましたね(笑)」

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ゴールドフィッシュの店長・コボこと大富寛のスケートボード。

 ちなみに、大富はスケートボードによって、川崎のユース・カルチャーのメインである不良の世界へ取り込まれずに済んだのだという。「おっかない先輩に呼び出されるんですけど、『オーリーやってみろよ』とか言われて見せると、『おお、すげぇな』って。今考えると、不良の人たちはスケーターをオルタナティヴな存在だと思ってた節がありますね。おかげで、カンパとかも回ってこなかった」

 また、当時、〈344〉のメンバーたちに可愛がられていた、大富よりさらに若いスケーターは、後に川崎を代表するラッパー=A-THUGになる。「あっちゃん(A-THUG)とは年が近いんで、よく一緒に滑ってましたよ。彼はとにかく外さないんです。駅前のデパートの屋上で大会があったときも、優勝したのはあっちゃんだった」。やがて、大富も技を磨き、中学3年生で〈344〉のヴィデオに出演する。「その後、いろいろなスポンサーが付きましたけど、これまでのキャリアで一番うれしかったのは、〈344〉に入れたことですね。親にまで自慢しましたもん。『いつも話してるハル君いるじゃん? そのハル君のチームに入れたんだよ!』って」

 しかし、その頃が、川崎スケート・シーンの最初のピークだった。「僕の世代でスケボー・ブームが起こったものの、みんな、免許が取れる年齢になってバイクに乗り出したり、ヒップホップが流行ってそっちにハマったりで、スケボーから離れちゃうんですよ。しばらくして、〈344〉の人たちもやめて、いよいよ、冬の時代が来る」。そんな中、大富はスケーターとして名を上げていったが、05年、彼にも転機が訪れる。「雑誌の撮影が朝から入ってたんですけど、前日の夜に雨が降ってたんで、中止だと思ってクラブで遊んでたんですね。そうしたら、朝、編集の人から電話がかかってきて、『〆切がヤバいんで、撮影しちゃいましょう』って。ただ、酒は抜けてないし、足は棒だし、さっさとキメないとヤバいと思って焦ってやったら、雨で滑って、縁石の角で顔面を強打して、血だらけ。目を開けたら、視界が真っ黄色で、失明したと思いましたね。結局、大丈夫だったんですけど、手術の間、いろいろと考えすぎちゃって。その後、スケボーと距離を置くようになりました」

 それから、数年、大富はDJに打ち込み、cbtek!(コボテック)の名義はクラブ・シーンでも知られていく。一方で、仕事ではなく、遊びとしてスケートボードに乗るようになった彼は、あらためて、自分にとってこの文化が大切であると感じたという。そして、10年、大富は〈ゴールドフィッシュ〉をオープンする。「5年、地元で滑ってなかったんで、その間にやり始めた子は僕のことを知らないんですよ。だから、まずは、だんだんと関係をつくっていって」。また、大富は元〈344〉の関口にも声をかける。「その頃、ハル君はスケボーをやめてだいぶたってたんですけど、1年ぐらいかけて口説き落として。彼は僕にとってのスターなんで、もう一度、やってほしいっていうのもありましたし、若い子たちにとっても、あの世代がまだ続けてるのって良いプレッシャーになると思うんですよね。撮影のたびに『お前、オレの年知ってる? 40歳にこんなことさせんなよ』って文句言われますが(笑)」それは、大富による川崎スケート・シーンのルネサンスであり、新たな世界の創造でもあった。

社会のしがらみとは無縁な高速道路下のスケートパーク

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週末の午後、大師河原公園スケートパークに集ったスケーターたち。年齢層が幅広い。

「おお、ヤバい!」。両腕にタトゥーを入れた若者がキャバレリアルを決めると、どっと歓声が沸いた。1対1でトリック(技)を見せ合うゲームをやっているのは、大富と、最近、川崎に移住したという日系ブラジル人のマルセル。2人を囲んでいるオーディエンスには、ベテランの関口もいれば、彼の子どもより若い中学生もいるし、地元が川崎の者もいれば、川の向こうの羽田や鶴見からやって来た者、あるいは、〈ゴールドフィッシュ〉の所属ライダーになるために松山から上京した者もいる。マルセルは日本語をほとんどしゃべることができないものの、スケートボードという共通言語を通してみんなと会話をしている。頭上の高速道路の合間から降り注ぐ夏の日差しが、足元の白いアスファルトに反射する中で繰り広げられるその光景は、どこか白昼夢のように感じられた。国籍も年齢も、川崎の不良にとって何よりも重要なはずの縄張りも関係のない世界。「ドゥ・ユー・ライク・カワサキ?」。マルセルに下手な英語で尋ねると、彼も片言の日本語で答えた。「ライク! スケボー(シーン)、メッチャイイネ」

 そこは〈大師河原公園スケートパーク〉といって、大富をはじめとした有志が地元議員へロビーイングを行い、14年に開設されるに至った川崎初の公営パークだ。そして、その経緯や、〈ゴールドフィッシュ〉が“街の自転車屋さん”としても親しまれている状況の背景には、大富の、もともと、アウトローだったスケートボード・カルチャーを、社会と結びつけようという思いがある。しかし、それは、同文化のエッジが失われることを意味しない。彼がデザインにかかわった〈大師河原~〉のセクション(障害物)が、街中の縁石や坂道に近い、無骨なつくりになっている事実からもわかる通り、大富にとってはあくまでもストリートで滑るというアウトローな行為こそがスケートボードの本質だし、むしろ、彼は同文化によって、社会からはみ出した者を受け止めようと考えているのではないだろうか。

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大師河原公園スケートパークでトリックを決める大富。

「ドロップアウトした奴も周りにはいます。川崎はそういう街です。そこで、僕が普通に生活できているとしたら、やっぱりスケボーが好きだからだと思う。例えば、ドラッグをやってたら滑れないわけだし。最近、若い子が悪さを覚えて、スケボーをやめちゃって。そういうのは悲しいけど、僕は教育者じゃないし、できるのは『悪さより、こっちのほうが楽しいじゃん』ってスケボーの魅力を伝えることだけですね」。そう言う大富に、『川崎のスケートボード・シーンの特徴は?』と聞くと、彼は「難しい質問をするなぁ」としばらく考え込んだ後でこう答えた。「自分たちが住んでいる街でやれることなんて限られてるじゃないですか。新しいビルがどんどん建つわけじゃないし、ストリートで滑る際のスポット(スケートボードに適した場所)も昔からあるものを使うしかない。そういう中で、レコードを塗り替えていくのが楽しい。ハル君の世代も僕らの世代も飛べなかったステア(階段)で、ある日、新しい世代がメイク(技を成功)する。その光景を見るのは、同じ土地で長くやってることの醍醐味ですよね」。それは、路上で積み重ねられていく、川崎のもうひとつの歴史である。(つづく)

(写真/細倉真弓)

【第一回】
【第二回】
【第三回】
【第四回】
【第五回】
【第六回】
【番外編】

磯部涼(いそべ・りょう)
1978年生まれ。音楽ライター。主にマイナー音楽や、それらと社会とのかかわりについて執筆。著書に『音楽が終わって、人生が始まる』(アスペクト)、 編著に『踊ってはいけない国、日本』(河出書房新社)、『新しい音楽とことば』(スペースシャワーネットワーク)などがある。

謎のドラマ挿入歌の歌い手は時任三郎の娘だった! Cana(時任花夏)が歌手デビュー

【「月刊サイゾー」立ち読みサイト「サイゾーpremium」より】

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 7月29日に『あなたと ずっと』でデビューを飾る新人シンガー・Cana(かな)。同曲はAmazonプライム・ビデオの日本オリジナルドラマ『はぴまり ~Happy Marriage!? ~ 』(ディーン・フジオカ主演)の挿入歌。長らく歌手名が明かされていなかったため、「誰が歌っているのか?」とSNS上で話題を呼んでいた。

 またCanaが、俳優・時任三郎の長女であることも大きなニュースとなっている。その彼女にデビューまでの経緯と、作詞にも関わった『あなたと ずっと』の内容についてインタビューを行った。

■海外生まれヒップホップ育ち…だけどデビュー曲はバラード!

――歌手デビューの以前から女優業もされていましたが、芸能界を目指すきっかけは何だったんでしょうか?

Cana 最初は高校生のときのスカウトですね。当時は「とりあえずやってみよう」くらいの感覚でしたが、ロサンゼルスの学校で演技の勉強を始めてから、女優を目指すようになりました。

――それが歌手デビューとなったのは?

Cana 帰国後に、現在の所属事務所の方から「歌もやってみようか?」と提案があったんです。私も音楽は大好きだったので、それから事務所の方と曲を作ったり、デモを録ったり、事務所のライブに出たりするようになり、それが今回のデビューにつながった形です。

――でもデビュー曲ながら、バラードに映える堂々たる歌声でとても驚きました! 先ほど事務所の方に話を伺ったら、Canaさんがカラオケで歌ったのを聞いて、「これは歌をやるべきだ」という話になったそうですね。

Cana そのカラオケのとき、実は動画まで撮られていたという話をさっき初めて聞きました(笑)。「バラードっぽいのを何か歌って」と頼まれて歌ったものだったんですよ。

――出身はニュージーランドなんですよね。時任三郎さんは子育てのために家族で海外移住していた時期がありましたが、そのときにお生まれになったと。

Cana そうですね。9歳まではカナダとニュージーランドで育ちました。子供の頃は朝にMTV(ポピュラー音楽のビデオクリップを流し続ける音楽専門チャンネル)を見るのが楽しみで、最初に好きになったのがThe Black Eyed Peasの『Where Is The Love?』(2003年)だったのを覚えています。

――小さな頃から音楽が好きだったんですね。

Cana 好きでしたね。ピアノやコントラバスをやっていた時期もありますし、他にもいろんな楽器をかじっています。でも、デビュー曲のようなバラードを歌ったことはなかったですし、好きで聞いてきた音楽も50CENTやEminemのようなラップばかりでした(笑)。

――それがバラードでデビューと(笑)。ただ、お父さんの時任三郎さんも歌手活動をされていますし、音楽を好きになったのはお父さんの影響もあるのでしょうか?

Cana 父は家でもギターを弾いて歌っていたので、今思えばそうかもしれないですね。でも日本に戻るまでは、父の仕事をあまり理解していなくて、ただ好きで歌っているだけの人だと思っていました(笑)。

別れる前のハワイ旅行はお約束? ZOZOTOWN社長にポイ捨てされた紗栄子、社長夫人の夢敗れたり!?

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7月上旬、友人のインスタに、大好きな前澤氏とではなく、彼が所有する“飛行機”と写る写真がアップされた紗栄子。目を凝らして見てみたが、前澤氏は機体に反射することもなく、どこにも写っていない。

 モデルでタレントの紗栄子と、大手ファッション通販サイト「ZOZOTOWN」(以下、ゾゾタウン)などの運営会社「スタートトゥデイ」の創業者で社長の前澤友作氏の交際が明るみになったのは、昨年10月のこと。一部スポーツ紙にて熱愛を報じられた後、12月に行われたゾゾタウンの忘年会にそろって出席し、堂々の交際宣言。互いのインスタグラムで仲むつまじい姿を公開し、紗栄子が前夫であるダルビッシュ有との間にもうけた2人の息子を連れて、アメリカに疑似家族旅行する様子などもアップされた。

 去る4月の熊本地震の際には、それぞれ義援金として紗栄子が500万円、前澤氏が1000万円を寄付したことを公表するも、偽善や売名といった賛否を呼んだことも記憶に新しい。さらには前澤氏が生まれ故郷の千葉県に大豪邸を建設中との話も浮上し、関係者の間では“結婚秒読み”の声も多く聞かれていた。しかし、そんな関係が危機に陥っているという。

 そもそも前澤氏とは、早稲田実業高校在学中にバンドを結成し、メジャーデビュー経験もある元ミュージシャン。その傍ら、98年に現在の会社の前身となる有限会社スタートトゥディを立ち上げ、01年にはバンド活動を休止して、会社経営に専念することに。同社はゾゾタウンの運営を軸に、ソフトバンクとの合弁会社を香港に設立したり、韓国の通販サイト運営会社と業務提携を結ぶなどして業務を拡大、急成長を遂げたことは、アパレル業界ならずとも有名な話だ。

 また、米経済誌「フォーブス」が昨年4月発表した日本の富豪23位にランクイン、前澤氏の総資産は2000億円以上ともいわれている。今年5月には、アメリカの芸術家ジャン=ミッシェル・バスキアの作品「Untitled」を5728万5000ドル(約62・4億円)で落札、さらに6月には自家用飛行機を購入したことを明かし、そのセレブぶりが話題となっていた。しかし、一方ではこう話すアパレル関係者もいる。

「前澤さんが高額なバスキアの絵画や飛行機を購入できているのは、自社株が上がって配当金を手にしているからでしょう。しかし、展望は明るくない、なんて話も耳にします。というのも、大手アパレルブランドがゾゾから撤退する意思を表明しているんです。まだ確定していないので社名は伏せますが、ゾゾの大きな収入源になっているブランドであることは間違いありません。各ブランドが自社ECサイトの認知度を上げ、直販で利益率を上げることが最たる撤退理由で、そうなればゾゾに支払うマージンは回避できます。

 ほかにもアパレル販売に注力するアマゾンとの交渉が各社進んでいるという話も。なので、バスキア購入のニュースが報道されたときは、業界関係者の間では『将来安泰パフォーマンスか』という見方が強かった。でも、アートへの物欲は本気のようで、バイヤーも数人抱えてミニマルアートにまで食指を動かしていると聞きます」

 一方で、“その性格に難アリ”と話す関係者も多い。過去にはゾゾタウンのあり方をめぐり、一般人に食ってかかったこともある前澤氏。12年、あるツイッターユーザーが同社の送料や手数料について不満を綴ると、「詐欺?? ただで商品が届くと思うんじゃねぇよ。(中略)お前みたいな感謝のない奴は二度と注文しなくていいわ」と語気を強めて反応。この発言がネットで大炎上し、これが発端になったのか、翌月から同社は全商品の送料を無料にした(現在は購入額に応じて送料がかかる)。

 また、前澤氏は破天荒な恋愛・結婚観を貫いていることでも有名だ。彼は以前交際していたA子さんとの間に2児、B子さんとの間に1児をもうけたものの、両者とも入籍することなく、子どもを認知するという形をとっている。現在もなお、両方の女性には年間数千万円の金銭的援助も行っているようだ。

「前澤さんは子どもを認知した後、アーティスト/デザイナーとして活躍するMEGさんと交際。彼女は紗栄子さんと前澤さんの交際が明るみになった際、“前澤さんの本命”としてネットで噂になりました。しかし、実際にはMEGさんとは破局していて、モデルのC子さんと交際していたようです。その後、C子さんと別れて紗栄子さんに乗り換えたわけですが、ゾゾにとって最良の広告塔になると踏んだのでしょう。実際、紗栄子さんとの交際報道で、ゾゾの認知度は飛躍的にアップしたはずですから」(芸能事務所幹部)

 自身の子どもが生まれても、あくまで自由に恋愛と仕事を嗜む前澤氏。別のアパレル関係者の話。

「家賃数百万円という超高級マンションで紗栄子さんと同棲していた前澤さんですが、ついに“出ていってくれ”とお払い箱にしたようなんです。交際当初は、ラブラブな2ショットをインスタにアップしていた紗栄子さんですが、5月10日を境に、彼女のインスタに前澤さんは出てきません。同様に、前澤さんのインスタにも5月8日以降、紗栄子さんの姿は確認できないんです」

 前出の関係者が続ける。

「紗栄子さんは6月末から7月初めまでハワイに滞在していたことをインスタで頻繁にアップしていたんですが、前澤さんが同行している気配は皆無。しかし、紗栄子さんの友人で、テレビや雑誌などにも頻繁に登場するハワイのコーディネーター、マキ・コニクソンさんのインスタに、前澤さんの所有する自家用飛行機に乗り込む紗栄子さんの写真が7月4日にアップされました。コメントには『ずっとこのシアワセが続きます様に。友作君、これからも紗栄ちゃんをよろしくお願いします』」と書かれていたんですが、肝心の前澤さんは写っていませんでした」

 以前のようなツーショットはなくとも、ハワイ旅行に行っているのなら、交際は続いているとも思えるが、「2人の間ではすでに決着がついている」と話すのは、大手広告代理店のスタッフだ。

「前澤さんは恋人と別れる前に、必ずハワイ旅行に連れていくんです。最後にいい思い出を残して関係を清算するのがポリシーなんでしょう。結局前澤さんにとって、女性はバスキアの絵画同様、装飾品なのではないでしょうか。最初は真剣に交際していると思いますが、これまでの恋愛遍歴を見ても、最終的にお金で解決できるものだと考えているのかも。ただ、そういった面に関しては、紗栄子さんも同じマインドだと思うので、サクッと離別し、互いに違う道を歩んでいると思いますよ」

 ダルビッシュとの離婚後、音楽プロデューサーの大沢伸一、そして前澤友作という一流セレブリティばかりを虜にしてきた紗栄子。かつては三流アイドルタレントだったはずが、順調にモデルやプロデュース業をこなし、いつの間にかセレブママタレ的なポジションにまで成り上がった。同時に母親として息子たちを育て、女としての幸せを掴むことも忘れないのが“ザ・紗栄子”。その底知れぬバイタリティで、次なる金の島へ羽ばたく姿を、今後も本誌は見守りたい。

(文/編集部)

そこには、“夢”があった――【ANARCHY】が誕生した京都・向島団地の真実<前編>

――今や京都を代表するアーティストとして名を馳せるようになったラッパー、ANARCHY。そんな彼は京都府伏見区の南に位置する集合団地〈向島ニュータウン〉出身としてデビューを飾った。1977年から入居が開始されたその団地は、いわゆる一般的な集合住宅ではなく、低所得者層や在日外国人、ヤクザなどが多数居住してきた団地で、隣接するシンナー工場に勤務する住人が薬物中毒に陥ったことから、過去には別名“シンナー団地”とも呼ばれたほど。本稿では、そこで生まれ育ったANARCHYに現地取材を試み、“ゲットー・スーパースター”を誕生させた“団地の夢”をルポルタージュする。

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(写真/cherry chill will)

 ウィキペディアで〈向島(伏見区)〉を調べると、地勢の項目に「伏見区中心街とは宇治川を挟んで対岸に位置する。南部には高層マンションが立ち並ぶ向島ニュータウンが立地する」とある。特に知識を持たずにこれだけ読めば、“古都・京都”のイメージが先行し、あるいは高級住宅街を想起する人もいるかもしれない。だが、向島ニュータウンを構成するのは、正確には高層マンションではなく、40棟に及ぶ市営住宅の団地群である。そして、このウィキペディアの最後、主な出身者の項目にはただひとり〈ANARCHY(ヒップホップMC)〉とある。新作となるアルバム『BLKFLG』をリリースしたばかりの彼は、現在フリースタイルバトルに端を発した新たな盛り上がりを見せている日本のヒップホップ・シーンで、最も注目を集めているアーティストだ。

■京都のイメージとかけ離れた何もなかった集合団地

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(写真/cherry chill will)

 ANARCHYは08年に刊行した自叙伝『痛みの作文』(ポプラ社)の前書きで、「この物語の舞台は京都の南にある向島団地。4歳の時、この団地しかない街に辿り着いてオレの人生が始まった」と語っている。その言葉の通り、彼にとって人生を歌うということは、団地を歌うことと言っても過言ではない。実際、彼の初期の楽曲では、向島団地のことが数多く歌われており、リリックにも「MJ GHETTO」「9 BLOCK」「8 BANK」といった、この団地に関するスラングが多用されている。

「MJ」は言うまでもなく向島の頭文字、「9 BLOCK」は彼が育った「向島ニュータウン9街区」、「8 BANK」は、仲間が住む近隣の「8街区」を指す。こういった言葉は、フッド(地元)と表現が密接に結びついたラップ(ヒップホップ)特有の表現で、バックグラウンドを知らなければ何を指すのか意味を掴みにくいものだが、楽曲のリアリティを裏打ちする醍醐味のひとつでもある。

 筆者は今からちょうど10年前、彼の取材で初めて向島団地を訪ねた。そのとき、ANARCHYというラッパーの土台を作ったヒップホップ・インディペンデント・レーベル「R-RATED RECORDS」の代表であるRYUZOは、「向島は、昔は京都の地図に載ってなかったといわれる団地。ANARCHYがラップを始めるまでは、治安が悪くて不良だらけ。その団地の不良を全員B-BOYにしたのがANARCHYだった」と説明してくれた。その頃、さすがに「治安が悪くてよそ者は歩けない」という雰囲気はなくなっていたが、団地の共用スペースには、暴走族の名前がスプレーで描かれていたり、その団地の1階エレベーター上にある「◯街区」というプレートには、無数のステッカーが貼られていて、清水寺や金閣寺に象徴されるような京都の一般的なイメージとはかけ離れた雰囲気の漂う場所であった。

 また、写真撮影で団地内を少し歩くと、近隣の棟から続々と仲間が現れ(08年に発表した楽曲「Fate」のミュージックビデオは、その雰囲気がリアルに映し出されている)、いつの間にか一団を成していく。この一団は〈GSS〉(ゲットー・スーパースターの略)と呼ばれ、ANARCHYの仲間であり、ラップをする者も率いている。その群れは、どうしたところでボーイスカウトの一団には見えず、彼らをラッパーと知らなければ、“ストリートギャング”と表現しても決して誇張ではない凄味があった。しかし、これまでの取材でANARCHYが自分自身や仲間について、“ギャング”という言葉を使った記憶は一度もない。

 今では日本のラッパーも、それぞれのスタイルで名もなき地元の日常を歌や映像で生々しく切り取ることが、一般的な表現方法のひとつになった。しかし彼の場合は、誇るべき地元について歌うわけではなく、その団地で生活する人間のこと、ましてや自慢できるポイントなどない育った地について、ただ剥き出しの言葉で歌ったのである。ANARCHYの存在によって、団地しかなかった京都・向島は、“ANARCHYが歌った向島団地”という街へと変わったのだ。

 本誌のこの記事が、その変化のひとつの証明のようなものだろう。日本が誇る古都京都の特集が、これまでどれほどの雑誌で組まれてきたのか想像もつかないが、その特集のひとつの軸が“向島”というのは、おそらく前代未聞だ。

■ゲットー・スーパースターが誕生した向島ニュータウン

 ANARCHYとの待ち合わせは、彼が育った9街区前。すでにロケハンを終えた取材班の前に、髪を鮮やかな緑に染めた男が現れる。いわく、ずいぶんと久しぶりの帰郷になるという。週末土曜の昼間だったことも手伝ってか、団地の前で談笑していると人の出入りがそれなりにあり、通りすぎる老若男女が「ひさしぶりやな」「元気しとった?」と、まるで数日ぶりの再会のごとく、次々と彼に声をかけていく。中には、ひとたび家に戻りサインをねだる子どもや、一緒に写真を撮るべく大人まで集まってくる。

「9街区に住んでる人は、みんな覚えてくれてるんだと思います。『3階に住んでたケンタ(ANARCHYの本名)やろ?』 って。道路を挟んで反対側の団地に行くとわからない住人もいっぱいいるけど、9街区側の団地の住人は、何街区の誰々、どこどこの息子さん、っていった感じでみんな顔見知りなんですよ」

 彼の話に耳を傾けながら、撮影場所を団地から近くの向島東公園に移す。この公園は、前述した自叙伝の中でも、章を設けて「東公園はオレの思い出の場所」と書き残しているほどだ。10年に発表したDABOとKREVAとの共演曲「I Rep」で、彼の冒頭のリリックにある「オレンジの街灯/輪になるマイ・ドッグス」とは、おそらくこの公園のことで、仲間とラジカセを囲んでフリースタイルをしていた光景を歌ったものと思われる。

 ちなみにロケハンの際、東公園で遊んでいた5~6歳の子どもたちから、屈託のない笑顔で「何やっとるの?」と尋ねられた。まだヒップホップとは縁遠そうな女の子だったが、「これから取材でANARCHYが団地に来るんだよ」と伝えると、「え、ここに来るん、ANARCHY!? ドラマ見てるで!」と、目を輝かせた。子どもたちの間では、向島団地が生んだ〈ラッパーANARCHY〉というより、EXILE率いるLDH勢総出演によるドラマ『HiGH&LOW』における〈俳優ANARCHY〉という認識なのだろう。

 05年にインディでデビューを飾り、14年にはエイベックスとメジャー契約を交わしたANARCHY。メジャー初作となるアルバム『NEW YANKEE』は、彼のために創設されたレーベル〈CLOUD 9 CLiQUE〉からリリースされた。メジャーデビュー以降は、先述のドラマにも俳優として出演するなど、活動のフィールドを広げていることもあって、たとえ団地を離れても、その存在感は余計に増しているのかもしれない。

「そうやって知ってもらえているのであれば、(ドラマは)出てよかったすね。逆の立場でも、向島のやつらがテレビに出ていたら、不思議な感じしますもん。いま5~6歳くらいの年齢なら、そのオトンやオカンが俺と歳が一緒くらいやし、それで知ってて見てくれてるんですかね。もしくは、向島に住んでる人たちでも、俺が京都出身ってことを知らんで見てくれてる人がいるのかもしれませんね」

 ロケハンの際に目を輝かせていた子どもたちは、昼時だったこともあり家に戻ってしまったようだが、今度はまた別の小学生がANARCHYの元に笑顔で集まってくる。ANARCHYが「デカなったな」と抱き上げた子どもは、彼の幼馴染みの娘で、自分の子どものようにずっと可愛がってきた子だそうだ。

■久方ぶりに目にした育った団地の変わらぬ風景

 ANARCHYが活動の拠点を東京に移し、京都を離れてから約5年が経つ。活動のフィールドを飛躍的に拡大する彼だが、久しぶりに訪れた向島団地は、その目にどう映ったのか。

「そう言われても……実はあんまりピンとこないんですよね、やっぱり。家族みたいなやつらがいっぱいいる感じなので、向島に帰ること=家に帰ってきたみたいで。さっき『ケンタ、帰ってきたん?』って声をかけてきたお姉ちゃんとかも、俺がちっちゃいときからずっと知ってる人だし、『あー、まだこの団地にいるんや』みたいな人ばっかりだから、全然変わらないんですよ」

後編は<コチラ>から

(文/山田文大)

ANARCHY(あなーきー)
1981年、大阪府生まれ京都府育ち。95年にラッパーとしての活動を開始し、00年には京都の仲間たちと結成したヒップホップグループ〈RUFF NECK〉のメンバーとして注目を集める。06年のデビュー作『Rob The World』から本格的にソロ活動をスタート。08年にはラッパーとしては異例の自伝『痛みの作文』を出版し、話題となった。14年にはエイベックスとメジャー契約を果たし、去る7月6日にはメジャー2作目となるアルバム『BLKFLG』がリリースされたばかり。

ANARCHY『BLKFLG』(CD+DVD)(販売元:エイベックス)価格/3980円(税別)

アメリカン・ドリームを掴んだ男の転落人生――「夫はベネズエラで死にました」

「死んだはずの男が生きている――」

 2015年、自らの死を偽装し、別人になりすまして生活を続けていた男の居場所を、米国連邦捜査局が突き止めた。あまりに奇怪なこの事件は、地元メディアを中心に報道され続け、大きな話題を呼ぶこととなった。

 男はなぜ死を偽装し、第二の人生を歩む必要があったのだろうか? そこには、男のある計画があった。

■移民から軍属、そしてアメリカン・ドリームを掴む

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幸せだった頃のホセと妻のダフニー。

 1970年代、フロリダ州の大学に通うホセ・ランティグアは、若くしてキューバからアメリカへと渡った移民だった。故郷から離れた新天地で勉学に励んだ彼は、卒業後、米軍へと入隊し、20年間に渡って軍人として務めた。その間に、5歳年下の女性と出会い結婚。2人の子供にも恵まれ、退役後は金融会社の役員として仕事に勤しんだ。

 そうして人生の半分以上を過ごしたアメリカの地で、キャリアを積み、55歳となったホセは、さらなる挑戦を決意する。それは、長年の夢であった自分の店を持ち、経営者として成功をする事だった。

 2008年、フロリダ州ジャクソンビルで、彼はついに念願の家具店をオープンした。 地元の人々は、誠実で気立てがいい彼を慕い、地元紙で「人気の店」として特集されるなど、ビジネスは成功を収めた。3年後には2店舗目をオープン。経営者として30人ほどの社員を抱え、海沿いの高級マンションに住み、ノースカロライナ州の山奥には別宅を設けるまでになった。さらにうれしい出来事は続く。長女が孫を身ごもったのだ。アメリカで生活を始めてから、およそ30年。ホセは、ついにアメリカン・ドリームを掴んだかに思われた。

■男が企てた、起死回生のトンデモ計画

 しかし2012年、3店舗目のオープンを計画中に、彼のアメリカン・ドリームは悪夢へと変わっていく事となる。家具店を始めて4年。店の経営にかげりが見え始めたのだ。なんとか持ち直そうと奮闘するも、業績は悪化の一途を辿った。多額の負債を抱え、これ以上店を続けることができない状態に陥ったホセは、妻と共にある計画を企て始める。それは、自らに掛けた生命保険を手に入れる為に、死を装うことだった。

 ホセは部下や友人達に「病に冒されている」と嘘をつき、「アメリカでは認可されていない治療を受けるためにベネズエラへ飛ぶ」と伝えた。さらに、保険会社に自分の死を立証するため、現地の医者に賄賂を贈って偽の死亡証明書を作成。すべては、負債から逃れ、再び幸せな生活を取り戻すためだった。

 2013年4月、ホセは滞在先で突然、心臓発作を起こしたとし、計画通り死亡を装った。南米の暑気の中で遺体の腐敗が進み、やむなく現地で火葬されたこと、遺骨は故郷であるキューバに続くカリブ海にひっそりと撒かれたことを、妻は周囲に伝えた。

 妻はそのまま、長年連れ添った夫の突然の客死で悲しみに暮れる未亡人を装い、教会で追悼集会を開き、「アメイジング・グレイス」を歌う参列者達の前で涙した。そして、ホセの死から1カ月後、家具店は、時期を見計らったかのように、約8億円の負債を残して倒産した。

■予定外の事態――認められないホセの死

 その後2人は、海沿いの高級マンションを売り払い、人里離れたノースカロライナ州の山奥にある別宅へと身を移す。ホセは、万が一の為に、隠れ部屋まで設けて、万全の態勢で潜伏生活を開始。そして、借金返済の為に、約9億円の生命保険の支払いを求めて、妻は保険会社へと出向いた。

 しかし、ここで問題が生じる。保険会社は、ホセの死を証明できる書類が欠けているとして、支払いを断ったのだ。納得のいかない妻は、息子と共に、なんとしてでも保険金を手にいれる為に、訴訟を起こしたが、検死結果が記されていない事から、一向に保険金が支払われる事はなかった。ホセと妻は、次第に苛立ち始める。

 そして潜伏生活の開始から2年後、2人は海外逃亡を目論んだのか、今度はホセの偽造パスポートの申請を企てる。彼は実在する人物、アーネスト・ウィルズという人物になりすまして申請を行なった。しかし、この行為が大きな誤算となる。

■お粗末すぎる発覚の顛末

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当の本人ホセ・ランティグア。前掲の写真とは随分容貌が変わっている。

 2015年3月21日、連邦捜査局はホセ夫婦が住む、ノースカロライナ州の自宅へと向かった。不正に申請された偽造パスポートの捜査線上に、死んだはずのホセの名前が浮上したからだ。

 ホセは申請時に、なりすました人物の身分証明書を使用したのだが、顔写真は自分のものを使用していた。顔認識システムによって、生前のホセが使用していた写真と一致してしまったのだ。さらに、彼がなりすましていた男性は、白人の彼とは肌の色の違う、黒人の男性。加えて、ソーシャル・セキュリティ・ナンバーは、1917年生まれの女性のものを使用するという失態を犯してしまったのだ。

 妻を助手席に乗せ、自宅近くで車を運転していたホセは、捜査官に発見され、妻と共にあえなく逮捕された。発見当時、彼は、カツラを被り、髭を蓄え、変装を施していたという。

 アメリカン・ドリームを掴みかけた男の転落人生――ホセと妻は、老後を刑務所の中で、過ごす事となってしまった。

井川智太(いかわ・ともた)
1980年、東京生まれ。印刷会社勤務を経て、テレビ制作会社に転職。2011年よりニューヨークに移住し日系テレビ局でディレクターとして勤務。その傍らライターとしてアメリカの犯罪やインディペンデント・カルチャーを中心に多数執筆中。

どうなるえみつん!『ラブライブ!』人気声優のAV出演疑惑にファンが下した「結論」とは!?

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「Pure girls project Single, Maxi」

 昨年のNHK紅白にも出場した声優グループ『μ’s』。そのセンターを務めている新田恵海が過去にAV出演していたとして一部週刊誌にスクープされ、アニメ業界にも衝撃が走った。報道から半月以上が経った今でも、ネット上には「ラブライバー」たちが疑惑の真偽を検証、喧々諤々の議論が展開されている。

「検証サイトではAV出演作と最近の新田の映像を比較して歯並びやほくろ、傷痕の位置、声などから本人かどうかを確認する作業がされています。現在では何が何でも疑惑を否定する層と、認めるしかないとあきらめる層に二分されていますね」(アニメ系ライター)

 そして、「ラブライバー」たちは「別人」ということで決着をつけようとしているという。

「なんでも『ファンのみんながえみつん(新田)の言うことを信じ、強い想いで疑惑を否定すれば、仮に同一人物だったとしてもやがて別人になる』という理屈だそうです。ファンの声優に対する一途な思いには頭が下がりますよ」(アニメ関係者)

 これでラブライバーたちも安心して眠りにつくことができそうだ。

ジャニーズはすでに見限っている!? KAT-TUNラストライブで見た事務所の冷たさ

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「オフィシャル・ピアノ・スコア KAT-TUN 10TH ANNIVERSARY BEST 『10Ks!』」

 充電期間に入ることを発表したKAT-TUNの10周年ライブ「10Ks!」、その最終公演が5月1日に行われた。このライブを最後に、亀梨和也、中丸雄一、上田竜也の3人が揃うグループ活動はひとまず休止になるとあって、メンバーたちが涙を流す場面もあった。

「メンバーの涙や挨拶に会場中のファンがすすり泣いてましたね。側近のスタッフや、マスコミ関係者たちも涙が止まらなかったとか。この10年、メンバーの脱退を繰り返し、他のジャニーズのグループに比べて決して順風満帆とはいえない道のりでしたからね。本人たちもスタッフも、今回のラストライブは感慨もひとしおだったのでは」(ライブ制作関係者)

 一方、ライブ後の打ち上げに登場したメンバーの顔は晴れやかなものだったといい、これからの個人活動についても前向きな姿勢を見せているという。しかし、ジャニーズ事務所側はすでに、メンバーの今後の活動については見限っている部分もあるのではないかという声も聞こえてくる。

「この日、ジャニーズ事務所は熊本県の民放4局で嵐の被災地支援CMを流し、大きな話題となりました。災害支援を優勢するのは当然ですが、KAT-TUN側のスタッフの中には、スポーツ新聞やワイドショーでの扱いを危惧して『なぜよりによってこっちの最終公演の日にぶつけてくるんだ』と愚痴をこぼす人もいた。ジャニーズ側のKAT-TUNへの配慮の無さが見てとれる」(芸能記者)

 スポーツ番組の司会やドラマの主演を張ることができる亀梨和也はともかく、これといって目立った活動の少なかった中丸雄一と上田竜也の今後の方向性については、事務所も頭を悩ませているのではないだろうか。そんな事務所に対し、一矢を報いるような活動ができるかどうか、10年目を期にいよいよKAT-TUN 3人の芸能活動が正念場を迎えることになりそうだ。

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