イチローが世界的な記録を達成した今こそ振り返りたい…戦争に翻弄された悲劇のプロ野球選手たち

【本と雑誌のニュースサイトリテラより】

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『兵隊になった沢村栄治 戦時下職業野球連盟の偽装工作』(山際康之/筑摩書房)

 マイアミ・マリーンズのイチロー選手が、日米通算で世界最多安打記録4257本を達成。日米合算ではあるが、ピート・ローズがもつ世界記録を塗り替えたこととなり、大記録の達成に日本中が沸いた。また、メジャーリーグのみでの安打記録3000本も目前に迫り、近いうちに再び吉報を聞くことができそうだ。

 イチロー以外にも、シアトル・マリナーズの岩隈久志選手、ニューヨーク・ヤンキースの田中将大選手、ロサンゼルス・ドジャースの前田健太選手など、日本人選手のMLBでの活躍が連日報じられているが、そんな日本人選手の活躍の影で、決して忘れてはならない野球人たちがいる──。

 沢村栄治をはじめ、現在のプロ野球に続く礎を築くも、戦争に翻弄され悲劇の運命をたどった選手たちを描く『兵隊になった沢村栄治 戦時下職業野球連盟の偽装工作』(山際康之/筑摩書房)が話題だ。

 戦中はたくさんのプロ野球選手たちが戦争へ駆り出され戦死していった。現在、東京ドームの敷地内にある鎮魂の碑には、70名以上の戦死した選手たちの名が刻み込まれている。

 その石碑のなかで、死の直前にキャッチボールをし、最期まで野球を愛し続けた逸話が掘られているのが、プロ野球選手のなかで唯一、特攻隊員として亡くなった、名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)の石丸進一だ。同書では、彼が特攻直前に球団理事の赤嶺昌志を訪ねた時のことがこう綴られている。

〈名古屋軍にいた石丸進一が理研工業にいた赤嶺の前にひょっこりと現れたのは、それからほどなくしてのことであった。軍服に身をつつんだ石丸は、海軍少尉となり見違えるようだった。休暇をもらい、筑波の隊から東京駅まで出ると、そこから焼け跡となった街を二時間もかけて歩いてきたのだという。
「新しいボールを下さい。死ぬ前に思う存分ピッチングをして死にたいんです」
 赤嶺は石丸の気持ちを汲み取ると黙って球団にあったボールを手渡した。粗末なボールだったが、石丸は嬉しそうにした。
「おい生きて帰れよ、また野球をやろう、待ってるぞ」
「赤嶺さんもお元気で」
 そういうと、石丸は姿勢を正して敬礼をすると、赤嶺のもとを後にした。
 石丸は飛行場近くで宿舎となっていた国民学校の校庭にいた。赤嶺からもらったボールで石丸は一球ずつ、感触をたしかめるようにキャッチボールをした。そして、これで思い残すことはないと自分に言い聞かせて石丸は飛行場へ向かった。〉

 その後、赤嶺のもとには、石丸からのこのような手紙が残されたという。

〈苦しみ以上に野球生活と云う物により楽しみを得ました
 是にて亦親兄弟を喜ばす事が出来二十四才としての私には何も悔ゆる所御座居ません
 是も皆赤嶺様の御盡力にて得た事と感謝致して居ります
 明五月一日夕暮必ず敵艦に命中致します
「忠孝」私の人生は此の二字にて終わります〉

 選手たち、そして、日本の野球界を守るため、戦中の日本職業野球連盟はありとあらゆる策をとっていた。ファウルは「だめ」、セーフは「よし」など、敵性語廃止の流れのなかで野球用語が強引に日本語化されていたのは教科書にも出てくる話だが、こういった流れの裏には、〈表面的に遮二無二時世に媚びているようで寧ろお笑い草である〉(「冬の大リーグ」1941年1月5日)とメディアに叩かれながらも、何とかプロ野球を存続させるため、涙を飲んで国の意向に従っていたという背景がある。

 野球用語の日本語化の他にも、試合の合間に余興で手榴弾投げ競技を行ったり、慰問や国防献金試合を行ったりと、その策は多岐に渡っていた。しかし、それでも、戦争は着実に野球ができる環境を奪っていく。

 日本のプロ野球選手で初めて戦死者が出たのは1937年のこと。名古屋軍の後藤正が犠牲となった。また、なんとか生き延びたものの、大ケガを負い引退せざるを得なくなってしまった選手も多い。

 大日本野球倶楽部(現在の読売ジャイアンツ)でキャッチャーを務めていた中山武もそのひとり。彼は戦地で銃弾が右足のくるぶしに当たり負傷。その後、球界に復帰するも、走ることすら厳しい状態ではやはり野球選手としてやっていくことは難しく、ほどなくして引退を余儀なくされている。

 そして、その中山とバッテリーを組んでいた沢村栄治は戦死した野球選手として最も有名な人物だろう。わずか17歳ながら、1934年の日米野球でベーブ・ルースやルー・ゲーリッグらを抑え「スクール・ボーイ・サワムラ」と呼ばれた彼は、なんと3回も召集されている。

 一度目は1938年。この軍隊生活において、豪速球で知られた沢村の強肩で手榴弾を遠投したエピソードは現在でもよく知られているが、かつて日米野球で大活躍した沢村は、戦争に行かされたことで、その華々しい野球人生に大きな影を落とすことになった。

 この時、沢村は手榴弾の投げ過ぎで肩を痛めてしまったのだ。また同時にピッチングフォームも崩してしまっている。さらには、左の手の平を撃たれ、〈左手の中指が思うように動かない〉状態になってしまう。沢村は右投げなので投手としては致命的なケガではないが、復帰後は、かつてのように速球でバッターを圧倒した姿は見られなくなってしまう。

 それでも、サイドスローに転向し、変化球主体の投手に生まれ変わった沢村は1941年のリーグ戦で9勝するなどの好成績をおさめていた。彼が次に召集されたのは、新たなスタイルの投手として生まれ変わりつつあったその年のことであった。

 この召集時も沢村は生きて日本の地を踏むことができたが、度重なる軍隊生活で身体と心を痛めつけられ続けた彼の野球選手としての成長は完全に止まってしまい、結局、1943年のリーグではほぼ登板機会もなくなり、〈ほとんど腕だけで投げており、制球もままならない〉という状態になってしまう。結果、0勝3敗という散々な成績に終わり、巨人から解雇、引退へと追い込まれてしまうのだった。

 そして、1944年、彼は三度目の召集を受ける。『兵隊になった沢村栄治』では、死の直前の沢村について、このように綴られている。

〈その沢村が三度目の召集を受けたのは、昭和十九年一〇月のことである。
 家族に心配をかけさせまいとしたのだろうか、
「おい、行ってくるわ」
というと、いつものように笑顔で家を出た。
 車で連隊の営門前まで行くと、沢村は、同行してくれた父に、これまで誰にも言うことのなかった巨人軍からの解雇の話をした。悔しさと悲しさから涙が止まらない。帰ったら、もう一度野球がしたい。そうした願いを受け止めた父は沢村の後ろ姿を見送った。
 門司港から沢村を乗せた輸送船が出航したのは、それから間もなくしてからである。すでに制海権は米国が握っていた。輸送船が屋久島の西約一五〇キロのところにすすんだときである。米国の潜水艦に発見されると魚雷を受けた船は成す術もなく沈没した。
 生存者はいなかった。〉

 享年27歳。もしも沢村が何度も戦地に送られ肩を壊すことなく選手生活を続けられていたら、また、日本がアメリカと戦争さえしなければ、村上雅則や野茂英雄よりも前にメジャーリーグで活躍する選手となっていたかもしれない。

 周知の通り、昨年は安保法制が強行採決され、今も「憲法改正」の争点が隠されたまま参院選に突入している。戦争とはどれだけ人々の人生を滅茶苦茶にしてしまうものなのか、彼らが残した教訓を我々は忘れてはならない。
(新田 樹)

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