“ザーメンまみれに”との痴れ言を「筒井さんらしい」で許す錆びついたマチズモ
本サイトを読まれる方が日頃手にすることがないであろうオヤジ雑誌群(そして新聞)が、いかに「男のプライド」を増長し続けているかを、その時々の記事から引っ張り出して定点観測していく本連載。
作家・筒井康隆が自身のブログ「偽文士目碌」やTwitter(現在は削除済み)で、韓国に設置された少女像について、「あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」と記した。あまりの愚言に愕然とする。当然、韓国では批判が殺到し、翻訳出版された筒井の著書を絶版にする判断も下されている。新聞報道では「ザーメンまみれ」などとは書かずに(書けずに)、表現をぼかし「屈辱を促すようなことを書いた」(東京新聞・4月9日)、「慰安婦像の少女を『可愛いから』と述べたうえで、性的な侮辱表現を続けて使った」(朝日新聞・4月8日夕刊)と書くにとどまっている。新聞だけを読む高齢層には、この事案を生じさせた最たる部分が伝わっていない可能性も高い。批判する声を受け、筒井自身は「韓国の人たちをどれだけ日本人がひどいめに遭わせたかよく知っています。韓国の人たちにどうこういう気持ちは何もない」(同・朝日新聞)とコメントしてみせたが、言い訳として破綻している。
「あんなものは昔から書いています」
「今回騒いでいるのは、僕の小説を読まない人たちでしょう」
筒井康隆/上『朝日新聞』2017年4月8日夕刊、下『東京新聞』2017年4月9日
筒井の発言を受け、この程度の発言はこれまでの彼の作風から考えれば想定内であり、特段問題にするべきものではない、との見解が現れた。「偽文士目碌」は、そのタイトルにあるように文士のパロディーとして綴られた日記であり創作なのだから、創作内の発言まで取り締まるようでは表現の自由がどうのこうの……との見解も呼び込んだが、これは明らかに彼の主観を綴るブログであり日記。差別される人たちの想いを描くために、小説作品として差別する人たちの暴虐性を描くのは文学の役割の一つだと思うけれど、今件をそこに当てはめようとするのは無理がある。
これで日韓関係が云々、というよりも、そもそも女性をいたずらに陵辱する見識をこうして「いつもの彼の作風」と処理してしまう非道に気づいてすらいないのが、何重にも非道である。筒井が新聞各紙にコメントを出しているが、自分の作品を認知している人にはこれくらい何でもないことなんですけどね、との弁解に終始している。自分の優良顧客は分かってくれる、と宣言して憚らない姿勢に、これまで何作かの作品を読んできたビギナー顧客としても侘しさを覚える。文学の世界に残存する特権性にあぐらをかいた結果がこの発言として表出しているのだとするならば、言い訳もまた真っ先にその特権性にすがってしまっており、情けなくうつる。
筒井本人のみならず周囲を取り囲む人々からの“これが筒井作品なのだ”との擁護に少しも賛同できない。何重もの差別を孕むこの暴言は、作家の特性に理解を示し、「ちょっと書きすぎちゃったけど……」で受け止める事案ではない。繰り返しになるけれど、筒井ほどの存在でもこういう発言が取り締まられちゃうのねと、言論の不自由を嘆きながら物知り顔で肯定するべきでもない。
東京新聞の匿名コラム「大波小波」(4月11日夕刊)は「実のところ、像への凌辱は、モデルとなった女性たちになされたことの再現にすぎない。筒井の提案に怖気を抱く者は、そこで思考停止せずに、そもそも像がなぜ作られたのかに思いを致すべきだろう」としているが、これを思考停止だとされては困る。「語るにはふさわしい場所を選べ」で結ばれるコラムの帰結には同意するけれど、差別的な言質を批判する行為を「思考停止」とされ、寄り添って真意を探らなければ表現の自由の規制につながるとの見解を誘発させるべきではない。発言をあらためて振り返って欲しいが、真意を探るべし、というレベルの発言だろうか。
「コラム書き終えて原稿を論説室の女の子に渡す時に、必ず『ああー、射精した気分だ』と言っていたのが忘れられない(笑)」
久保紘之(ジャーナリスト)/「WiLL」(2015年7月号)ワック
現在は「月刊Hanada」で連載されている堤堯と久保紘之の対談で放たれていた上記の発言は、この連載の初回で取り上げたものだ。特別ゲストとして産経新聞のコラム『産経抄』を30年以上も書き続けた石井英夫を招いたのだが、この対話の中で上記のようなエピソードを楽しげに語る。今回の筒井の言い回しに似ている。かつて産経新聞に在籍していた久保が、石井がこのようなことを言っていたと口にすると、石井は「そんなこと言ったことないよ! 気持ちはそうだけど(笑)。口にしたことはないと思うなぁ」と否定する。久保はさらに「言ってましたよ(笑)。それを聞いて、『ははぁ、物書きとはこういうものか』と感激したものです」と続けた。その対話の近くにある見出しには「コラム執筆は“射精”?」とある。まったく不快である。
末端の物書きとして「物書きとはこういうもの」とされるのは実に心外なのだが、こういった単なるハラスメントを平然と述べ連ねてしまえるのは、「ハラスメントに厳しくなった世の中でもぶっちゃけ続ける俺たち」に対して、下手すりゃ「うんうん、彼らは勇気があるな」と喝采を浴びせる読者がいるからである。少なくとも、限られた雑誌や論壇ではそういった雰囲気が保たれ、これくらいイイじゃんかグヘヘヘ、と徒党を組んで嘲笑し続ける。まさしく「皆で前まで行って」の一体感ではないか。
「ザーメンまみれにして来よう」と書く下劣を肯定しようとする動きには、総じて無理がある。彼のキャリアを分析しつつ、「筒井康隆氏の作風を知っていれば、筒井氏ほど『同調圧力』に異を唱えてきた作家は居ないことが理解できる」(Yahoo!ニュース個人・古谷経衡「筒井康隆氏の『慰安婦像ツイート炎上事件』をどう捉えるべきか?」)と議論を持ち運ぶ姿勢は、筒井の言い訳「あんなものは昔から書いています」と呼応しているからこそ危うい。これまでのキャリアを振り返って考察するまでもなく、これは単なる凌辱である。論説室の女性に「ああー、射精した気分だ」など言っていたと回顧するオッサン言論と筒井の作家性を区分けして考えたがるだろうけれど、まったく同質である。
いつまで慰安婦問題をやっているんだ、もう日韓合意したじゃんか、との呆れ顔も目立つが、その呆れ顔を真っ先に向けるべきは、問題視し続ける側ではなく、筒井のように問題を茶化し直す存在ではないか。筒井の発言についてフォローしたい人は、それが名も知らぬ誰かのブログやツイートであったとしてもフォローできたのだろうか。彼の特権を踏まえた上で容認していたのであれば、その姿勢って浅ましいと思う。錆びついたマチズモを作家の特性として磨き上げるようなことがあってはいけない。