小説もやっぱり「あまぁ〜い!」 セカイの小沢一敬らしさしかない小説 『でらつれ』
お笑いコンビ、スピードワゴンの小沢一敬が2010年に発表した小説『でらつれ』(講談社)は自伝的な小説ではないし、お笑いの世界を描いた物語でもない。作品のなかには、現在「セカオザ(SEKAI NO OZAWA)」は不在であるにも関わらず、彼の世界観が読者の目の前に現れてくる。
全体を構成する16篇の短編は、それぞれ独立している。各物語の主人公は全員35歳。この設定は「おやっ? また35歳か」と読者に物語のつながりを匂わせる。そして案の定、「実はこの物語は……」という最後にすべての短編をつなげるオチをもってくる。
また、この作品の構造は、鳥居みゆきの『余った傘はありません』(幻冬舎)とよく似ているが(作中で仕掛けてくるギミックにはタネが完全にカブっているものさえある)、『余った傘はありません』のほうが8倍ぐらい読み応えがあった。
そもそも、それぞれの短編の内容が取り立てて面白いものではない。そこがまったく鳥居の作品と違う。たとえば冒頭の「ときどき海、どきどきキス」はこんな話だ。離婚した主人公が生まれ育った海のある町に戻ってくる。中学時代に思いを寄せていたクラスメートとの思い出の地である海岸に主人公は立ち、当時の不器用な恋愛を回想する。するとそこにそのクラスメートが偶然通りかかり、ふたりは20年ぶりに再会する。当時、伝えられなかった思いをふたりは初めてそのとき伝えるのだが……。
……と、16編全てがこんな具合である。どこかで読んだ/観た/聞いたことのあるような青春ドラマや『世にも奇妙な物語』(フジテレビ)の陳腐なパロディが集まっているだけ、と切り捨てることもできる小説なのだが、恐ろしいのは小沢がそれをパロディとしてあえて書いているのではなく、本気で書いているところにある。刊行時のインタヴューでは、この「ときどき海、どきどきキス」をフリッパーズ・ギターの『海へ行くつもりじゃなかった』から着想を得た、と彼は語っている。
小沢「……フリッパーズ・ギターの『海へ行くつもりじゃなかった』っていうアルバムのタイトルがピッタリくる小説を書こうと思って書いたんだ。……ドラマだったらここ(筆者注:最後のシーン)でこの曲を流したいなと思って書いてたの(笑)。分かる?『Goodbye my classmate, goodbye my math teacher』って、『さよなら僕のクラスメイト、さよなら数学の先生』っていうこの歌がずっと流れてた」(スピードワゴンの小沢一敬 小説『でらつれ』(講談社刊)で作家デビュー!)
◎セカオザファンのための小説?
2010年にフリッパーズ・ギターを恥ずかしげもなく出す、そのセンスの寒さ・痛さに半笑いになってしまうのは評者だけではないだろう。真顔で「男も岡崎京子を読むべきだよね、女の子の気持ちを理解するためにさぁ」とか言いそうだ。
一方で、そうした陳腐さ・寒さ・痛さこそがセカオザらしさであり、彼の世界観とも言える。そして、それは表現の節々からも感じられるだろう。たとえば、こんな文章。
「女の子の唇はキスするためについているんじゃないかなんてすら思う。/だったら、男の唇は何のためについているんだろう?/そうだよ。大好きな女の子とキスをして、その帰り道に口笛を吹くためについているのさ」(「ときどき海、どきどきキス」)
よく読むと男女の唇の意味が変わってないし、帰り道に口笛を吹く意味もまったく意味がわからないが、「あまぁ〜い‼」と叫ぶ相方、井戸田潤の声が聞こえてくるようだ。そして、読者はこの陳腐さ・寒さ・痛さのなかにセカオザの世界を目撃してしまうのである。残念ながら世界のなかに読者を没入させるだけの力はこの小説にはない。ただ、その世界を目にする、という面白さがあるようにも思われる。「ああ、あの人の小説らしい」という読み方で、小沢一敬のファンであればそこそこ満足してしまうのではないか。
空虚な小説の「なにを」読んでいるのか
一般的に、小説の評価はストーリーの良し悪しで判断されることが多いように思われる。それゆえに「世界観を読む」ような小説の読み方は邪道に思われるかもしれない。しかしながら、そうした読み方をさせる小説は特別なものではない。日本でもっとも商業的に成功した小説家のひとり、村上春樹の長編も常にそうしたものだろう。
社会と没交渉的でやや特殊な職業についている主人公(やたらとモテて、自炊をする)、飛び切りの美人ではないがチャーミングな顔のヒロイン(物語の途中で消えてしまう)、あまり有名ではないクラシック音楽、謎の邪悪な存在、超自然的な体験、「やれやれ」……。ストーリーは違っても小説の世界観はいつも同じ「村上春樹的なもの」である。そして村上春樹の場合、ストーリーがよくわからなくても世界観を目にするだけで読んだ気になってしまうことも十分にありえる。小説を読んでいるつもりが「◯◯らしさ」を味わうだけ、という読み方だ。
もっとも、そういう読み方はあらゆる小説において可能であろう。宮部みゆきの小説には「宮部みゆきらしさ」があるだろうし、伊坂幸太郎の小説には「伊坂幸太郎らしさ」が、森博嗣の小説には「森博嗣らしさ」があるように。(こうした有名作家の小説とセカオザの小説と並べるのもどうかと思うが)「セカオザらしさしかない」というこの作品の空っぽさは、読者は「なにを」読んでいるのか、という問題を顕在化するようでもある。