椿鬼奴、真木よう子、宇多田ヒカル…「格差婚」の定義、そもそもおかしくない?

 先月開催された第8回沖縄国際映画祭で、レッドカーペットに登場した椿鬼奴(44)のふっくらした姿が話題となった。昨年、後輩芸人の「グランジ」佐藤大(36)と結婚した鬼奴は、「妊娠ではなく幸せ太りです」とマスコミに対応。夫婦生活について「ご飯は作ってくれるし、家事もやってくれるいい主人なんです」「ちょっと収入がねぇ、少ないんで。その分、私が補填してます」と話した。

 鬼奴と佐藤は13年来の友人だったが、お互い酒飲みということで意気投合し、交際1年4カ月で婚約。ただ交際中も、婚約中も、そして今現在も、「佐藤は鬼奴に食わせてもらっている」ことが、笑いのネタとなっている。なぜネタになるのかといえば、男女の組み合わせの夫婦で、男性のほうが女性よりも多くの収入を得ていること、男性が経済的に女性を支えていることが、正当な在り方だからだ。

 芸能人カップルで妻の収入が夫より高い、または妻の知名度や人気が著しく高い場合に、“格差婚”という言葉が使われる。女性が自分より格下の男性と婚姻するのは不思議な、なかなか理解しがたい選択らしい。そうした夫婦が不仲になったり離婚すると、大抵、甲斐性のない男性に女性側が愛想を尽かした……と伝えられてしまう。最近では、真木よう子と元夫がそうであった。絢香と水嶋ヒロ、黒木メイサと赤西仁、松嶋尚美とヒサダトシヒロなども似たような見方をされがちな夫婦である。年下の外国人男性と結婚した浜崎あゆみ、宇多田ヒカルも同様だ。かつて結婚し、まもなく離婚した藤原紀香と陣内智則も“格差婚”だと散々言われた。

 日本は一見、男女平等な社会に見えるような気もするけれど、この“格差婚”という現象は、はっきりとした不平等の存在を示している。たとえば西島秀俊と一般女性の結婚、これは夫婦間に桁違いの収入差があるはずだが、格差婚とは呼ばれない。夫が稼いでいて妻が無職のパターンは格差婚ではなくごく自然な夫婦のありかたとして受け入れられている。逆に、妻が稼いでいて夫が無職となるともう風当たりは半端なく強い。芸能人であっても、結婚したら妻が仕事をセーブして夫のサポートにまわると「いい女だね」と賛辞が集まり、結婚後に夫の仕事が上昇気流にのると「あげまん」「内助の功」。確かに家庭で支えてくれる妻がいることは夫にとって心強いだろうが、それ「だけ」が妻のあるべき姿でもない。

 これまで「夫が稼ぎ、妻子を扶養する」モデルが王道とされる時代であったが、今もそれが自然な流れかと言えばそうではない。「男性が経済的に支える」ことを動かしがたい常識のように捉えてしまうと、出産後の育児も自動的に「本来、養われる立場」の女性が担うことになり、女性側のキャリアアップはおざなりにされてしまう。また、男性側がキャリアを中断したいときに“世間の常識”が壁になり阻んでくることもある。

 「男は女よりも稼がなければならない」のは自明のことじゃないし、「女は自分より格上の男と結婚したいはずだ」もただの思い込みだ。だが稼ぐ力の低い女性が、それを補うべくより稼げる男性との家庭を望むことは妥当で、実際に男女の賃金格差を考えれば多くの女性が上昇婚志向になるのは無理もない。国税庁の「民間給与実態統計調査」(平成25年分)によると、平均給与は男性 511 万円、女性 272 万円と大きな開きがある(男性は30代以降の世代で大きく上昇するが女性はしない)。

 「男が上でない結婚」を“格差婚”と揶揄する風潮は、若い世代が結婚に踏み切らない一因となっていると見ることもできる。収入の少ない男性が、恋人との結婚を考えるとき、「でもまだまだ自分は(収入面で)半人前だからダメだ」と思いとどまったり、女性側も「彼の稼ぎじゃ不安だから」と別の男性を探したりすることを、そりゃそうだよねと当たり前の常識みたいに受け止めていないだろうか。しかし女性も少なくとも学生時代を終わればまず社会で賃金労働をするのが普通であり、結婚したとしてもそのまま仕事を続ければ、男性側にさほど高収入を求めずにいられるはずである。

 前出したタレント夫婦たちを格差婚と呼んだり、妻の稼ぎが世帯収入の大半を占める家庭の夫を“ヒモ”と呼んだり、とかく男女夫婦のあり方や役割を固定化しがちな社会だが、芸能人に限らず誰だって自分なりの柔軟な選択をして良い。それぞれの個人的な選択に、格差婚とかヒモといった言葉でちょっかいを出すことも、そろそろ終わりにしていいのではないだろうか。

コメントは停止中です。

サブコンテンツ

このページの先頭へ