福山雅治は未婚女性の「王子」ではなく「同士」だった?――西島秀俊や櫻井翔etc…男性芸能人の結婚観に見る「芸能人の器」とは
――女性向けメディアを中心に活躍するエッセイスト・高山真が、サイゾーの記事を斬る。男とは、女とは、そしてメディアとは? 超刺激的カルチャー論。
サイゾー2015年11月号
結婚する男性芸能人のニュースが続きました。西島秀俊、向井理、福山雅治…。そうしたニュースが出るたびに、さまざまなメディアでは、「女性ファンたちがショックを受けている」という記事を書きたてました。サイゾーの連載「念力時報」は、歌人の笹公人氏の短歌と、写真家の江森康之氏による写真のマッチングで時事ネタを扱う企画。『「新しい報道」のカタチ』というサブタイトルがついた連載ですが、11月号の「念力時報」は、福山雅治の結婚をテーマに笹氏が短歌を発表していました。
「ましゃ、ましゃ、と寝言つぶやく百万の主婦の涙の伝う真夜中」
サイゾー本誌に掲載されている八首のうち、ネット版であるサイゾーpremiumの無料版にて公開されているのはこの一首だけですが、ほかの七首のうち六首は、「福山の結婚によって精神のバランスを失う女たち」を題材にしたもの、残り一首は「福山のモテっぷりを見ながら、我が身の腹の肉をつまむ」と、「働きながら自分の手をじっと見る」石川啄木を彷彿させる短歌でした。
サイゾーだけでなく、男性たちが想定している「女たちのショック」は、どのメディアもわりと同じです。ざっくりまとめるなら、「『福山雅治(または西島秀俊)の妻』という椅子に、自分が座れなかったことを嘆いている」というもの。しかし、けっこうな数の女友達からガッツリ話を聞いてきたうえで私が確信しているのは、彼女たち(および、彼女たちが私に話してくれた、さまざまな一般女性たち)の「ショック」の内容は、それとはかなり異なるものだ、ということです。
「結婚という形をとらなくても、内助の功なんていうアナクロなものを生活に導入しなくても、人生わたっていける…。そんな人だと勝手に思っていたんだよね」
「そう、ホントに勝手に、こちらが下駄を履かせていただけなんだけど、その下駄が結婚報道で外れたとき、『やっぱり(結婚)するよねえ』と我に返って、そんな下駄を勝手に履かせていた自分自身がちょっと恥ずかしくなったんだよね、『なんかすいません』みたいな。その恥ずかしさを隠したくて、ことさら大げさに騒いだ部分もある」
「その意味じゃ、福山雅治より西島秀俊のほうが、外れた下駄がはるかに高かったわ。『相手、プロ彼女っすか!』みたいな」
それなりに恋人はいたけれど、結婚という形には行かなかった…。そんな女友達たちとの会話は、「30代前半の向井理はともかく、40代の福山雅治や西島秀俊は、『ダンナ候補』ではなく、『シングルでもフツーに生きていける』という『同士』としての下駄を履かせられていたのかも」と、私に強い印象を残したのです。
このエピソードで「女はタレントにそんな妄想まで背負わせるのか」と不思議になった男性読者もいるかもしれません。が、そこに男女の差はたいしてありません。「結婚」という、生活(というか人生そのもの)が変わってしまうネタに関してさまざまな妄想を抱くのは確かに女性のほうかもしれませんが、恋愛やセックスに関して、男性たちが女性タレントに抱く妄想の質も量もかなりのものだからです。
芸能人の人気、特に、アイドル的な芸能人の人気とは、どういうものか。ざっくりと数式にすると、こんな感じです。
『一般人が抱く妄想の濃さ・履かせる下駄の高さ』(A)×『そういった行動をする一般人の数の多さ』(B)=『A×Bを受け止められた芸能人だけが獲得する人気』(C)
この数式で出てくる、Cの数値の大小が、そのまま「芸能人の器の大小」になります。演技力とか歌唱力といった「芸ごとの力量」があまり重要視されない日本の芸能界において、ある種のバロメーターになるもの。作り手側でそれを骨の髄まで知っているのは、「恋愛禁止」という負荷を作ってまで、プロデュースするアイドルのAの数値を高めようとした秋元康(あとになって否定したりしましたが)であり、芸能人側でそれを深く理解している人間のひとりが、『櫻井有吉アブナイ夜会』(TBS系)で、新宿2丁目のオネエに囲まれた状況を利用して、「オネエ言葉使用」というクッションを入れつつも「アタシの仕事にとって結婚ってリスクじゃない? だから考えるわよ、タイミングとかもそうだし」と語った櫻井翔です。芸能人側のトップ中のトップは、「サユリスト」という名前までついたファンたちの「清らか妄想」「聖女妄想」を、数十年にもわたって盤石の態勢で受け止めてきた吉永小百合でしょう。
芸能人に対して、「派手な世界に入ることを自分で選んどいて、しかもその世界で勝っている人間に感情移入などできるか」と思う人も多いでしょう。が、「実力(つまり、自分の手の中のあるもの)以上に、イメージ(つまり、他者の手の中にあるもの)が重視されてしまう世界は、なかなか恐ろしいものだわ…」と、木っ端エッセイストの私は思っていたりするのです。
高山真(たかやままこと)
エッセイスト。著書に『愛は毒か 毒が愛か』(講談社)など。来年初旬に新刊発売予定。